福岡市教師いじめ事件から考える、教員という仕事の危うさ
Netflixドラマ『でっちあげ』を観て、
「これはドラマではなく、警告だ」
そう感じた教員は少なくないはずです。
この作品は、2003年に実際に起きた 福岡市「教師によるいじめ」事件 をモデルに制作されています。
当時、「教師によるいじめ」「殺人教師」といった強烈な言葉がメディアを駆け巡り、一人の教員は社会的に徹底的な断罪を受けました。
しかしその後、裁判や福岡市人事委員会の判断では、
いじめの事実は認められない
とされ、懲戒処分は取り消されています。
それでもなお、この事件は今も
「教師が子どもをいじめた事件」
として語られ続けています。
なぜでしょうか。
教師によるいじめ事件は、本当に「事実」だったのか
この問いを立てること自体が、今の社会では危ういのかもしれません。
なぜなら私たちは、
・報道された時点
・処分された時点
・炎上した時点
で、事実認定が終わった ものとして扱ってしまうからです。
『でっちあげ』が描いているのは、
教師個人の資質の問題ではありません。
・子どもを守らなければならないという正義
・責任を回避したい学校組織
・保身に走る教育委員会
・センセーショナルな見出しを求めるメディア
これらが重なったとき、
「教師が悪かった」という 物語 が完成していく。
一度完成した物語は、
裁判結果や事実確認では、ほとんど修正されません。
教員は「説明すれば分かってもらえる」と信じすぎている
多くの教員が、どこかでこう信じています。
「きちんと説明すれば理解される」
「誠実に対応すれば守ってもらえる」
しかし『でっちあげ』は、その幻想を容赦なく壊します。
・疑われた時点でアウト
・説明は「言い訳」に変換され
・沈黙は「認めた証拠」になる
・組織は、まず距離を取る
これはドラマの誇張ではありません。
現実の教育現場でも、すでに起きている構造です。
教員は、なぜここまで弱い立場になったのか
かつて教員は、
専門性をもつ教育のプロ として、社会から一定の信頼を預けられていました。
しかし今はどうでしょうか。
・常にクレームの対象
・常に監視される存在
・失敗は即「資質の問題」
・守られる前に切られる職業
『でっちあげ』が突きつけるのは、
教員という仕事が、制度的にも社会的にも極めて脆弱になっている現実 です。
これは
「問題教師を排除できるようになった健全な社会」
ではありません。
誰でも、いつでも、切り捨てられる社会 です。
もし明日、自分が「加害教師」にされたら
教員コミュニティ『ジーニー』として、
最も考えたい問いがあります。
もし、
あなたの授業中の一言が切り取られ
保護者の違和感が「被害」として語られ
SNSや報道が物語を作り始めたら?
そのとき、
誰があなたの話を、最後まで聞いてくれるでしょうか。
管理職でしょうか。
教育委員会でしょうか。
それとも――
誰もいない のでしょうか。
Netflix『でっちあげ』は実話なのか|よくある疑問への整理
『でっちあげ』は完全なドキュメンタリーではありませんが、
福岡市「教師によるいじめ」事件 を強く下敷きにしています。
ドラマとしての脚色はあるものの、
・教師が疑われ
・組織が距離を取り
・世論が断罪を加速させる
この構造は、実際の出来事と重なります。
また、モデルとなった事件では、
裁判および人事委員会において
いじめの事実は認められない
と判断されています。
それでも、社会の認識は更新されませんでした。
教育現場に必要なのは「正しさ」ではなく「問い続ける力」
この社会は、
「子どものため」という言葉を使えば、
どんな断罪でも正当化できてしまいます。
しかし本当に守るべきなのは、
・事実を急がずに確かめる姿勢
・対話を途中で打ち切らない勇気
・誰かを生贄にしない教育観
教員が萎縮し、
黙り、
波風を立てないことだけを選び始めたとき、
教育は、確実に空洞化していきます。
教員コミュニティ『ジーニー』が『でっちあげ』を勧める理由
『でっちあげ』は、正直に言って不快な作品です。
観ていて苦しい。
怒りも湧く。
それでも私たちは、
教員だからこそ観るべき作品 だと考えています。
この社会で教員として生きるとはどういうことか。
沈黙とは、どんな意味を持つのか。
「正義」に迎合することは、本当に子どものためなのか。
考え続けることをやめない。
問い続けることから逃げない。
教員コミュニティ『ジーニー』は、
断罪される前に、
孤立する前に、
考え、語り合える場所であり続けます。
Netflix『でっちあげ』は、
他人事として観てはいけない作品 です。
それは、
いつでも私たち自身の物語になり得るからです。
教員として。
そして一人の人間として。
この問いを、ここで終わらせないために。
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