「努力は報われる」は本当?教育のプロたちが語った、努力にまつわる意外な4つの真実
「努力は美徳だ」「努力すれば夢は叶う」――。
私たちは子どもの頃から、こうした言葉を何度も耳にしてきました。
しかし、その言葉がいつしかプレッシャーとなり、「もっと頑張らなければ」と自分を追い詰めてしまう人も少なくないのではないでしょうか。
こうした「努力」を巡る長年の悩みに、教育の専門家たちは新たな光を当てています。彼らの議論から見えてきたのは、私たちが抱くイメージとは全く異なる、努力の意外な正体でした。
この記事では、その深い対話の中から、特に私たちの心をハッとさせ、肩の荷を少しだけ降ろしてくれるような「4つの視点」をご紹介します。
真実1:「辛い」と感じたら、それは“努力”ではないのかもしれない
多くの人が「努力=辛いこと、大変なこと」と捉えがちです。
歯を食いしばり、苦しみに耐える姿こそが努力の象徴だと。しかし、専門家たちの対話の中で「努力って辛くない?」という素朴な問いが投げかけられたことをきっかけに、この常識は揺らぎ始めました。
ある参加者は、この問いに「辛いことをやらなければいけないのは義務感」「それは努力じゃない」と返します。
もし活動の最中に「辛い」「やらされている」と感じているのであれば、それは目標達成への純粋な活動ではなく、単なる「義務」をこなしている状態に過ぎないのではないか、という新しい視点が浮かび上がったのです。
これは心理学で言う「内発的動機付け」の重要性を示唆しています。
つまり、外部からの報酬や罰ではなく、活動そのものから得られる楽しさや満足感が、行動の最も強い原動力になるという考え方です。
議論の中でも「自分が夢に向かっているのは楽しい」という意見が出たように、本当に達成したい目標に向かうプロセスは、苦痛ではなく充実感を伴うものなのかもしれません。
この考え方の核心を突く、次のような発言がありました。
辛い辛いと思っていると時はまだ努力じゃないなっていうのは思ってますね。
もし今あなたが「努力が辛い」と感じているなら、それは本当にあなたの心が望んでいることなのか、一度立ち止まって考えてみる価値がありそうです。
では、なぜ私たちは「努力=辛いこと」というイメージを抱いてしまうのでしょうか。その一因は、次の真実、つまり「努力」を評価する視点に隠されているのかもしれません。
真実2:「努力しているか」を決めているのは、自分ではなく“他人”かもしれない
「あの人は努力家だね」という言葉。
私たちは日常的に使いますが、この評価が、しばしば他者の視点から下されているという事実に、私たちはあまり気づいていません。
議論の中でも「努力って判断してるのは他者なようにね」という指摘が共有されました。
当の本人は、目標達成のために夢中になって必要なことをこなしているだけで、「努力している」という意識すらないケースが多いのです。
例えば、歴史上の偉人を扱う教材でも、彼らが一心不乱に取り組んだ行為を、後世の私たちが「努力」と名付けて評価しているに過ぎない、という見方もできます。
この視点のズレは、時に私たちを混乱させます。ある参加者は、そのもどかしさを次のように表現しました。
自分の中の価値で判断して行動してやることなのに他者からは行動面だけを見て努力してるしてないって判断されるからモヤモヤします。
自分の内なる情熱に従って行動しているだけなのに、それが他人の基準で「努力が足りない」と判断されたり、逆に過剰に「努力家」と評価されたりする。
他者の評価に晒されるプレッシャーは、私たちの挑戦する意欲そのものを左右します。
だからこそ、3つ目の真実として浮かび上がった「安心感」が、全ての土台として不可欠になるのです。
真実3:努力は「義務」ではなく、安心感から生まれる「意欲」である
議論の核心に迫る、「努力ってしないといけないの?」という問いが投げかけられました。あなたなら、どう答えるでしょうか。
驚くことに、この問いに対して、参加者の多くが「しなくても良い」という立場を示しました。
その背景には、「どんな自分でも丸ごと受け入れてもらいたい」という人間の根源的な欲求があります。
まずはありのままの自分が認められ、安心して存在できる環境があって初めて、人は自然と「もっと良くなりたい」「頑張りたい」という意欲が湧いてくる、というのです。
これは、近年ビジネスの世界でも注目される「心理的安全性」の考え方と通じます。失敗を恐れず、ありのままの自分でいられる環境こそが、個人の成長と挑戦意欲を最大限に引き出すのです。
議論の中でも「安心感がベース」「身の安全がないと…頑張ろうって…ならない」といった声が聞かれ、努力を外から強制するのではなく、意欲が内側から自然に生まれる土台の重要性が浮き彫りになりました。
努力とはmust(しなければならない)ではなく、安心という土壌の上で育まれる自発的な「意欲」なのです。
心理的な土台が整い、自発的な意欲が生まれたとき、私たちは初めて「報われるかどうか」という次の問いに向き合うことになります。
しかし、その問い自体にも、大きな落とし穴が潜んでいました。
真実4:「努力が報われるか」の前に、問うべきことがある
対話のきっかけとなったのは、「努力とは報われるのか?」という問いでした。私たちはつい、努力を「成功」か「失敗」かという結果だけで判断しがちです。
しかし、参加者からは「どうなったら報われたと言えるのか?」という、より本質的な問いが投げかけられました。
「報われる」という言葉の意味そのものが曖昧であり、その基準は人それぞれです。大会で優勝することなのか、自己ベストを更新することなのか、あるいは単に「やってよかった」と感じることなのか。
成功か失敗かという二元論を超え、その過程で得られる成長や経験、そして何よりも「目標に向かう楽しさ」そのものに価値があるのではないか、という議論へと深まっていきました。
この議論は、奇しくも対話のチャット欄に投稿された、野球選手・王貞治氏の有名な言葉を思い起こさせます。
努力は必ず報われる。もし報われない努力があるなら、それはまだ努力と呼べない
この言葉の真髄は、単なる精神論ではありません。「報われる」という状態を、勝利や成功といった「結果」として捉えるのではなく、試行錯誤するプロセスそのものに没頭し、その経験自体が価値となる境地を示唆しています。
つまり、結果がどうであれ、その過程の充実感こそが本当の「報酬」であり、そのレベルに達して初めて、それは真の「努力」と呼べるのかもしれない、という深い視点を与えてくれるのです。
まとめ
今回ご紹介した4つの視点は、「努力」という言葉が持つ重圧から、私たちを少しだけ解放してくれます。
- 「辛さ」は努力の指標ではない。むしろ楽しさや充実感が本質かもしれない。
- 「努力」の評価は、他人のものさしで測られていることが多いと知る。
- 努力は、心理的な安心感という土台から生まれる自発的な「意欲」である。
- 「報われるか」を問う前に、「自分にとっての価値や喜び」を見つめることが大切。
努力とは、誰もが同じようにこなすべき画一的な苦行ではありません。それはもっと多様で、個人的で、時には楽しさに満ちた活動のはずです。
最後に、あなたに問いかけたいと思います。
「あなたが今『努力』だと思っていることは、本当にあなたの心を躍らせるものですか?」
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